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妙な夢を見た。一人の女の子が僕の部屋に泊まりに来る。彼女は(現実よりいくらか広く、いくらか抽象的な夢の中での僕の部屋の隅で)眠っている。音も立てず。彼女を見る僕の視点は低く、そこから僕も横になっているという状況を推測することが出来る(夢を思い出すには推測という作業が少なからず必要になる)。お世辞にも広いとは言えない部屋に男女が一人ずつ横になって眠っていると言うことになる。しかしそこには俗に言う「男女の親密さ」は無い。僕と彼女の間には(その視点から推測するにということだが)物理的に一定の距離があり、互いのパーソナルスペースは自然に守られている。彼女は僕に背を向け、眠っている。深く、深く。彼女の体はまるで僕の部屋にしっかり固定された家具のように、少したりとも動くことは無い。呼吸の気配も見えない。そこに僕の感情の入り込む余地などは、或いは僕ら二人の感情が交わる余地などは、まるで無いように思える。

場面は切り替わる。さっきと同じように僕は部屋にいる。彼女が部屋の外から僕を呼ぶ。僕は自室のドアを開ける。彼女はそこに立っていて、僕にある事実を伝える。「トイレが流れない」。彼女はおそらく僕の家の手洗いを使い、そして水が流れなかった。そのことを僕に伝えている。僕は手洗いに向かう(僕の部屋は3階にあり、僕の家には2階と1階にそれぞれ一つずつ手洗いがあったが彼女は何故か1階の手洗いを使っていた)。僕は手洗いに入り、なるべく便器の方を見ないようにして奥にある手動の水洗レバーに手を伸ばす。彼女は(決して愉しいとは言えない)僕のその作業を後ろから眺めている。

 

その夢に登場する彼女は、高校時代の同級生だ。同じクラスになったことは無いが、部活動が同じだった。吹奏楽部。彼女はテナーサックスを担当していた。身長は部活内で一番低く、140cm前半だったと記憶している。彼女はよく「私がテナーサックスを持つとバリトンサックスに見える」と自虐していた。ふくよかで、目は細く、柔らかい顔つきで人懐っこい印象を受ける。少し癖の付いた髪の毛を肩につかない程度に揃えて切っていた。

 

電話で起こしてくれた女友達に、その夢の話をした。僕の夢日記を付けてくれていて、夢を覚えている時は起き抜けに彼女に報告するようにしていた。彼女はそれを何かしらに記録して「おけ」と言った。あまりにも鮮明で奇妙な夢だったので、この夢は一体どんな意味を持っているのだろう?と聞いてみようと思ったが、やめた。彼女は僕のその夢に関して、特に感想も関心も考察も無いようだった。まあいいさ、と僕は思った。ただの夢だ。すぐに忘れてしまうだろう。すぐに忘れてしまうことが夢が夢として機能している理由なのだから。

 

テストを終えて学校を出た。コーヒーを買って喫煙所でタバコを吸った。半分ほど吸ってから灰皿にタバコを押し付けて火を消し、喫煙所を出た。電車を乗り継いで家の最寄り駅に帰ってきた。すっかり夕方になっていた。空にスペースを取って広がった雲はバックの夕日によって薄くオレンジ色に光っていた。もうすぐ梅雨が明けて、夏が来る。駅前の商店街を家に向かってのんびり歩きながら今朝の夢のことを考えた。そして、彼女が高校を卒業した後、駅の近くのうどんチェーン店でアルバイトをしていたことを思い出した。僕は迷った挙句、その店に行くことにした。今朝夢を見て、今この帰り道に彼女のバイト先を思い出した。これも何かの啓示かもしれない。僕は物事の一般的なあるべき方向よりも、そういうぼんやりとした啓示の方が好きだった。外食はほとんど食べないのだが、まあいい。試験が全て終わった今、ひと時の幸せと何かの啓示に導かれて350円のうどんに120円のかき揚げを乗せて一人で食べる若干20歳の男を一体誰が咎められるだろうか?

少し道を引き返したところにその店はあった。店内は閑散としていた。見たところ客は僕以外に一人しかいなかった。店員は二人だけだった。どちらも男で一人はアジア系の外国人らしかった。うどんチェーン店ではいつもカレーうどんしか食べないのだが、今日は真っ白なシャツを着ていたので仕方なくきつねうどんを注文した。言うまでもないことだがもちろんかき揚げも付けた。レジの店員(日本人の方だ)はまるで気力もクソもないような小さな声で会計の金額を言った。僕は1000円札を一枚と数枚の硬貨をトレーに置き、500円玉を一枚受け取った。外国人の店員からきつねうどんを受け取って店内の奥のテーブル席に座った。

 

彼女は何故夢に出てきたのだろうか?僕はうどんを啜りながら考えた。確かに素敵な女の子だったし他の部活メンバーと比べたら僕の中で比較的接しやすいし優しい印象はあったが、夢に出てくるほど彼女との友情や強い思い出があった訳でもなかった。僕には当時付き合っていた恋人がいたし、恋愛的な感情もなかった。また彼女から特別な好意のようなものを寄せられた覚えもなかった。僕らはただ狭い部室の中でサックスパートとバスパートに分かれ(僕はチューバを吹いていた)一定の距離を保っていた。その部屋には100人ほどの部員がいたし当時の僕の恋人もそこに含まれていた。僕らは常に「良き部活仲間」としての健康な距離を保っていたし、それ以上のものを必要とも、意識すらしていなかった。

大体高校生だったのはもう3年ほど前のことだし、彼女の夢を見たことは一度もなかった。何故彼女はなんの前触れもなく突然僕の夢に現れたのだろうか?そして、それは何故こんなセンシティブでいささか危険な、他人に話しづらい内容の夢でなくてはならなかったのか?繰り返しになるが僕は彼女に恋愛的な感情を抱いたことは無かったし、今思い出しても特別な感傷に至ることは無い。そして夢の中で抱いた感覚も、そのような恋愛や或いは性的な内容の意味付けにはさほど重きを置いていない気がした。どちらかと言えばそれは、通常の「良き部活仲間」としての距離を、お互いが求めていないにも関わらずやむおえず一時的に壊してしまうということへの何かを示しているように思えた。そしてそれはお世辞にもあまり良い夢とは言えなかった。

 

お腹が特に空いていなかったから、食べるのに時間がかかった。中年の夫婦が僕の後に来て、先に帰って行った。それ以外の人の出入りは無かった。結局彼女はそこには現れなかった。今日はシフトがなかったのかもしれない。しかしそこで彼女と偶然再会したのももう二年ほど前のことだったし、もう既にバイトを辞めていても特に不思議はなかった。

僕は店を出て、商店街を家に向かって歩いた。街はすっかり夜になっていた。彼女は僕が水洗レバーを回している時、後ろでどんな顔をしていたのだろうか?思い出そうとしたがダメだった。鮮明な細部は思い出せるが、その時の彼女の表情だけはまるで濃い霧がかかったようにボヤけていた。まあこういう日があってもいいか、と僕は思った。ふと、なんでもない誰かのことを思い出して、或いはその人の夢を見て、懐かしむのも悪くないかもしれない。そう思った。そして僕らはそれぞれ、確実に夏に向かっていった。戻らない日々と奇妙な夢の記憶をそこに残したまま。